2009年10月4日日曜日

またまた両毛線で似顔絵

 今回は大平よりさらに遠くK市。鄙びた景色はキライではないが電車の乗り継ぎに失敗しそうで気がきでない。大宮と小山でそれぞれ5分と4分の乗換時間しかない。本数が少ないので逃したら即遅刻。特に小山では両毛線のホームが離れていて、他の乗換客ともども急ぎ足でようやく間に合うという間隙。何とか予定通りの綱渡りに成功してK駅に着いたものの仕事前に既に疲弊してしまった。

 さて現場はいつもの住宅展示場ではなく、分譲中の建売り住宅のオープンハウス。7軒ほどの似たような新築の家がならぶ一区画で、うち2軒はすでに入居者がいて3軒は売約済、残りの2軒がオープンハウスとして買い手を待っている。そのためのイベントとして焼きそば、ドリンク、その他。そして似顔絵である。ずっと前に12回、この手の客寄せによばれたが、客がすくないのはここでも同じのようだ。その点、楽でいいのだが、ここでは予想もしない難事が待ち受けていた。似顔絵の準備のために水を汲もうと「トイレはどこですか?」と聞くと担当のS氏は困ったような照れたような顔をして「トイレははは、トイレはそこらの土手で…(群馬なまりで)」「え、そうなんすか?」「そう(群馬なまりで)」。というのは周りの家は全て売り物なのでそのトイレを使うわけにはいかない。かといって仮設の事務所などもなく、だからトイレは土手なのだ。

少しあるくとK川が流れていて人通りはほとんどなく、確かにできないことはないのだが、なにせさえぎるもののないオープンエアーの土手、100m先からだって何やってるかは一目瞭然にちがいない。しかしその時すでに尿意をおぼえていた僕には、とてもこのまま1日我慢することは不可能だった。仕方なく土手へやってきたもののS氏の言うように土手の上からではあまりにも露出度が高い。だれかの水分がどこかに水たまりを作っているのではないかと恐れつつも、土手から雑草が繁る河原へ降りると、足は地面にはつかず草のクッションに足首まで沈んだ。ここなら腰あたりまでは隠れるのだが、それは同一平面上から見た場合だ。土手を歩くひとからはやはり一物、いや、一目瞭然なのだ。それに、たとえだれも見ていないとしても野外であるということは全世界、全宇宙の前に無防備であるということなのだ! たちションなんかここ数十年やってない! 高校の下校途中で田んぼに放ったとき以来だ! だが、精神的な障壁を生理は乗り越えた。殆んど音もなく草むらに消えて行く放物線が早く尽きることを念じる僕の目の前には、繁る雑草の葉に憩うテントウ虫。その横ではくすんだ色の蝶々がその羽をまるで催眠術士の手のようにゆっくりと閉じたり開いたりしていた。ハズカシクナ〜ル、ハズカシクナ〜ル、アナタハダンダンハズカシクナ〜ル…。こうして似顔絵師の一日は始まったのだった。

 K川の反対側、売り家のすぐ背後から、こんもりと木々が生い茂る立派な山が起ち上がっていた。山に向かうように座り、なかなか来ない客を待っていると、時間はまるで負荷がかかりすぎたパソコンのようで、そのタスクバーの動きはすこぶる鈍かった。山上にはときおり鳶が現れて優雅に輪を描き空を滑って行った。あまりにも変化のない風景に、僕はすっかり退屈して乾き始めた絵の具に水を挿したり、立ち上がってみたり、座ってみたり。ほんの数時間でこんなにこっちは退屈してしまうのに、山よ、木々よ、お前らはほっておいたら何百年もそのままでいられるんだなあ。と妙に感心、というか呆れる。

自然が自然であるという事は、人間にはとても我慢ができない事なのかもしれない。だから人間は自然を駆り立て、せき立て、自分のスピードに合わせようとして、結局ぶちこわしてしまうのだ。屈辱を忍んで軽くした膀胱をまた重くするわけにはいかないので、貰った缶コーヒーも、ちびちびとしか飲めない。それでも、体の中の自然は着実に膀胱へと水分を送り続けている。もう、河原ションは嫌だ。てんとう虫にも蝶々にも会いたいくない。あ~、早く帰りたい。

ようやく、景色にも変化が訪れる。日が傾き、山からは杉の匂いを含んだ冷たい空気が流れてきて、仕事終わりの5時には少し早いけれど、「客もいないし、もういいですよ(群馬なまり、たぶん)」とS氏のお許しが出た。S氏は映画「イノセント」に出てたいつも困ったような顔をしているジャンカルロ・ジャンニーニと加藤茶を足して2で割ったような顔をしており、アイスのおやつをくれたので僕は個人的に「カトジャン」という愛称を捧げたい。駅まではスタッフの若い衆が送ってくれて、似顔絵師はようやく帰途についたのだった、やれやれ。

K駅には、こんな電車も。押し入れから出てきたおじいちゃんの鞄といった風情。ウサギの目が赤い。

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